合理と不合理のバランス
台所に立って洗い物をしていると、いろいろな考えが浮かんでくる。
お風呂場でシャワーを浴びている時もだけど、水の流れには停滞している思考を押し流してくれるような作用があるように思う。
ここ数日、仕事の不合理な部分について考えている。
取引先によって作業内容や報告形態が違うのは仕方がないけれど、それに対する報酬が見合ってない案件がいくつかあるなぁということ。
指定された店舗に行って作業を行い、作業当日にPCやスマホから報告をするというお仕事を扱っている会社はたくさんあって、いくつかの会社を掛け持ちでやってみると、『〇件いくら』という報酬のところは、作業内容に見合った報酬設定で報告もシンプルな形式になっているが、私が1月から始めたある会社の報酬は、店舗での滞在時間(作業時間)に対してのみ報酬が支払われるので作業の時間が短くなればなるほど賃金が安くなる。しかしそれに対して報告の形式がシンプルかといえば、そんなことはなかったりする。
かといって、作業に時間をかけすぎるとそれはそれでNGなので、その案件のその店舗の規模にあった作業時間で業務を終わらせなければならない。
はっきり言って、報酬はわずかなものだ。
それでも、コンビニの時みたいにまるっきり気の合わない人と一緒に働かなければならないとかでもないし、仕事の内容的に、取引先の方との人間関係であれこれ悩むようなケースもほぼないだろうと思われる。
基本的には一人で巡回して作業して報告して、それを上司がチェックするので上司との関係性は重要だが気に病むようなことは今のところない。
というか、コンビニを辞めてからは仕事のことで悩んで眠れないということはなくなったのでメンタルが安定しているという点だけでも大きな収穫ではある。
問題は、月に一度しかない店舗巡回作業の店舗滞在時間に対してしか賃金が発生しないのにもかかわらず、打ち合わせやメール・電話での連絡、急な飛び込みの案件と事前準備などに時間を割かれすぎ、それに対しては一切給料が発生しないことだ。
また、急な飛び込み案件も報酬が少ないわりにリスクが高かったりする。
交通費も出ない覆面調査なのにお店の写真(指定箇所全部)撮って来いって・・・無茶でしょ・・・変に思われたら私が今後買い物に行くときに困るので、そんな安い報酬でリスク高すぎる。
割に合わない案件は断ろうかなぁとか、いろいろ考えてはみたものの、割に合わない仕事も上司との信頼関係を築いていく上では必要なのだろうし、世の中全て合理的なものだけで成り立っているわけではないので、仕事も、多少割に合わないものでも消化していかなければならないのかもしれない。
ただ、無給の部分に関しては、あまり自分の時間を取られすぎたり賃金に対して見合っていない内容が継続的であるなら、今後のことを考えていかなければならないと思う。
あまりストレスを感じずに働ける環境ではあるけれど、労働内容に対して報酬設定は適切でなければ。
そう思う反面、世の中のすべてが陰と陽、プラスとマイナス、正と負、そういったバランスで成り立っているならば、不合理なものと合理なもので成り立っている仕事を受容する必要があるのかもしれない。
田舎暮らしの快適さと私の台所
田舎暮らしを真面目に始めてからは、自炊をするようになった。
こちらに移住してすぐの頃はコンビニで働いていたので廃棄のお弁当もらいまくりで、そればかり食べていたし容器のゴミでゴミ箱がすぐにいっぱいになってしまったけど、仕事も変わって廃棄弁当も貰えなくなったし、生活費が厳しいので自炊。
ファミレスやファーストフードのお店も10km以上離れているし、ほとんど行かなくなった。
家の近くにはコンビニがそこそこあるけど、お弁当やおにぎりはとにかく高いし、バイト時代にやや食べ飽きたし、お金もないし、昔ほど食べたいと思わなくなってしまった。
これは良いことだと思う。
食事はお米やパスタ、うどんなどをローテーションで食べる。たまにインスタントのラーメンも作るけど一食あたりの単価が高いので多くても1ヶ月に10食くらいかな?
味噌汁をなるべく作って飲むようにしている。
ごく簡単なもので、基本は乾燥ワカメ。
野菜があるときはもう少し具を入れる。油揚げを切ってチャック付きポリ袋とかに入れて冷凍しておいて、少しずつ使ったりもする。
でも最近はほぼワカメのみ。
何もないよりはずっと良い。
自分仕様の台所。
使用頻度の高いもので、鍋とかはしまい場所が少ないのでぶら下げてみた。
料理する人のキッチンぽい。
これが現在の食器棚と炊飯器、コーヒーメーカーやシャトルシェフにお米などの棚。
アフターです。
先月まではこんな感じだった。
この電子レンジの乗っているエレクターは組み替えて反対側に設置した。
棚板とポールが追加で欲しいですが、様子見でしばらくこのまま我慢して使うつもり。
最近は台所に立つのが楽しい。
今までは後片付けが面倒で洗い物をためてしまうこともあったけど、最近はおはぎ氏が台所のシンクに入り浸りで、いろいろ舐めたりするとこわいので、汚れたものは置けなくなってしまった。
けど、おはぎちゃんのおかげで台所はいつも綺麗にするようになったので良しとしよう。
とにかく台所が大好きなおはぎ氏。
毎日パトロールしてくれてます。
この足で布団に上がるので、油物や汚れ物はすぐに洗ってシンク内もこまめに掃除しています。
東京に居たときはお店がたくさんあったけど、この辺は食べるところも少ないし、外食するほど生活費に余裕もないので滅多に行かなくなりました。
そのぶん、台所に立つ時間やおはぎちゃんと過ごす時間も増えたし、家の中をカフェみたいにして楽しんでるので満足してます。
東京での一人暮らしは孤独感が強くて、家で一人で過ごす時間がさみしく感じるときもあった。
夜遅くまで活動している街、深夜にツタヤに行ったり、ファミレスに行ったり、コンビニに行ったり。夜遅くまで働いていたせいもあるけど、夏なんかは夜涼しくなってから散歩がてら深夜までやっているお店をぶらぶらしたり、仕事が終わってからまっすぐ帰らずに深夜営業のファミレスでごはんを食べたりしていた。
特に誰かと話すとか知り合うとかではなくて、人のいる場所に行くことで多少なりとも孤独感が薄れていたように錯覚していたが、実際は今よりも人と接する機会は多かった。今はあまり孤独だと思わないのは家族の近くで生活しているからかもしれない。
父は家にいるし、妹や甥っ子姪っ子も少し車を走らせればいつでも会えるところにいる。
家族ってやっぱり大切だ。
ゴミだらけの家だとしても、家族がいるのといないのとではさみしさが違う。
他に考えられる理由として、田舎では、たいてい朝早くて、夕方くらいには皆家に帰ってゆっくりするようだ。
コンビニで働いていたときも、夕方までは混むけど夜はさっぱりお客さんが来なかった。
車で走っていても、夜はほとんど出歩く人がいない。
ちなみに土曜日や日曜日も仕事や農作業以外は皆家でのんびりするらしく、暇だからといってぶらぶらする人は少ないみたい。
何しろ車が外を走っていないのだ、ほとんど。いや、ぜんぜんだ。
そういう生活だから、私も夜は自宅でのんびり過ごす。さみしくて街を徘徊する必要もないのだ。夜出歩いても誰もいない。それどころか獣が出歩いているのでちょっとこわい。
仕事での収入が減って、生活がシンプルになった。本当に必要なものしか買えないから、買う前にちゃんと考える。
買ったものはきちんと使う(食べ物を腐らせたり賞味期限切れで捨てるなんてこともない)。
手早く便利より、多少手間はかかっても、安くて使い道の多い食材を選んだりするようになった。
わかりやすいところでいうと、ホットケーキミックスを買わずに小麦粉から作るということだ。東京に居たときはそんなめんどくさいことあまり考えなかったし、そこまでしなくても生活していけるだけの収入もあったし、探せばいくらでも仕事があった。
やっぱり仕事というか、働き口が少なくて、最低賃金も東京よりだいぶ低くて、そういう環境で生活していくにはより質素なものを選ぶようになってきた…というかそうならないと生活できないってことなのだろうな。
たくさん稼いでたくさん使うよりも、少し稼いで少し使う方が楽だし、たくさん稼ぐためには時間や労力、体力、精神力をたくさん使う…そんな働き方はもうやめよう。
田舎で暮らし始めて成長できた部分がたくさんある。とはいえこれでまた東京で暮らすとなっても、たぶん無理だろうな。
時間の流れがまったく違う世界のようです。
ここでは、1日が26時間くらいあるみたいな感じ。大げさにいうと、30時間かもしれない。誇張しすぎかな?
隠遁生活ばんざい。
田舎暮らしの快適さと私の書斎
久しぶりの更新。
先日、ブログを開設してちょうど1年目の日だったが、未だかつてないくらいのアクセス数があったようで、びっくりした。
その数に舞い上がって張り切っても自分らしい記事が書けないだろうし、ちょうど月末でいろいろバタバタしていたので、結局、今日に至るまで更新ができなかった。
一週間遅れではあるが、記念になるような記事を書こうかなと思ったけど…とりあえずふりかえり。
こうしてブログを継続できているのは私にとって、とても良い事なのだろうと思う。
昨年の今頃も少しいろいろ重なって、3ヶ月くらい更新できなかったけど、ひとまず1年で100件以上の記事が書けたわけだし、ジタバタしながらも、なんとかかんとか前に進めていると実感できる。
ゴミ屋敷での父との生活も、職探しも、苦戦しまくりだけど、ここでの暮らし自体は気に入っている。
街っぽいところに出るまで車で30分くらいかかるし、冬は寒くて死にそうだし、夏は暑くて死にそうだけど、不便な暮らしの中にはお気に入りがたくさんある。
今日改めて思ったのは、西側の窓からの景色が開けている事。
山から吹き下ろす風がすごくて、畑からの砂が舞い上がるし、家はギシギシ…OZの魔法使いみたいに家ごと飛ばされるんじゃないかと思うくらいの風に煽られ、夏は夕日が照りつけて眩しいし、暑いし熱い。冬は冷たい風がこの西窓の隙間から入ってくる。
もう少し木が生えてたら雨風雪もしのげるのにと何度思ったことか…。
でも、毎日、この窓から夕焼けが見える。
山の陰に落ちてゆく太陽を愛しく思いながら、赤く染まった空を眺めて1日の終わりを感じるのだ。
網戸が少し写ってるけど、こんな感じ。
この夕焼けと、夜の星空、静かな静かな夜。
ゆったりとした時間の流れがとても心地よい。
そして先日模様替えしてできた書斎。
テレビを切り離して本棚とPCや仕事道具、その他の書類、文具などをまとめた。
足元にはホットカーペット、アルミの保温シートは必需品。
ソファの後ろが西側の窓。
まだ少し寒いけど、お気に入りスペースです。
仕事道具をまとめた棚。
ファイルはA4サイズが縦に入って、その上の段は10センチくらいの高さがあるので書類やファイルノートPCなどを一時的に置けるようにした。こっちは平置き。優先順位が高いものほど上に置くようにしている。
左の棚は仕事用の販促資材置場。
右の棚も販促資材や仕事以外の要件をファイルに入れて優先順位が高いものを手前にしてある。
棚の上はお香や灰皿、仕事用の携帯など。
カフェテーブルの上はシンプルに。
ノートPCは使わないときは棚の中段にしまう。
100均のペン立てには電卓、ハサミ、カッター、定規、付箋、消しゴム、修正テープと蛍光ペンや油性マジックなどがまとめてあるので使わないときはペン立てごと移動する。
左上は100均の折りたたみ式スマホスタンド。
Huluとかで動画を見るときはこれを使う。
仕事のスケジュールをスマホで確認するときも立てる。
他にもガラケーや電卓を一時的に置いたりする。とても重宝しているスグレモノ。
最近湿度が低くて乾燥しまくりで唇とかすぐ乾くのでヴァセリンがリップ代わり。
玄米茶やハーブティーなどをポットで淹れて飲むのでティーポットとコップも必需品。
冬は特になるべく暖かいものを飲むように心がけている。ちなみに写真のはほうじ茶ラテ。
ペットボトルや紙パック、ビン、缶などの飲み物は ゴミの分別や捨てるタイミングになるまで置いておく場所もないので、できるだけ買わないようにしている。
毎日飲むお茶とかはティーバッグ、コーヒーも自宅でドリップ、牛乳は自宅ではどうにもならないので買っているけど、ヤギとか飼えば牛乳買わなくて済むかな…。
餌代か大変か、フンの世話も…。
田舎暮らしで困ることは、車で移動するのに慣れてしまって、ほとんど歩かなくなったこと。
冬は寒すぎて、歩いて出かけようとか思えないし、歩いて行ける距離にはコンビニと図書館、市役所くらいしかない。
運動しなきゃです。
これは今年の目標だな。
自分のブログについて、そして自分について、思うこと
ブログを書くとき、なんとなーく…書きたいことを書いているのだけど、大抵は、現在直面している問題について、冷静になるために考えをまとめている。
無駄な愚痴みたいなのや、過去にとらわれすぎていたり、言い訳ばっかりしている自分がたくさんいて、なんだかな〜って思う。
しかし、自分でもうーん…と思うようなことを細かく書くのは、枝葉のように伸びた自分の考えや、その発端となった出来事を整理して、要るものと要らないもの、または大切なこととそうでないことを分けるため。
自分の思考にラベルを貼って、ファイルに分けて棚に入れられたら楽なのに、そしてある程度時期が過ぎて、今の自分に不要だと思ったら捨てて、思い出として取っておきたければそのようにすればいいのだけど、目に見えない形のないものの扱いは難しい。
こういうことがあったから、こう思って、今こういう状態で、そんで、これから先どうしたいか?
この起承転結のプロセスで大事なのは、これから先どうしたいか?の方向性を探ることかなと思う。
進むにしても、逃げるにしても、『今こういう状態』というところから逃げるだけじゃなくて、逃げた後どうするか?また、どっちに逃げるか?
(「進む」というとなんだかポジティブじゃなきゃいけないみたいで重たく感じるので、「逃げる」にしてみた。でも「逃げる」は必ずしもネガティブな表現ではない。勝てそうにないほど強い敵に会った時は唯一の全滅回避コマンドである。)
右に逃げるか、左に逃げるか、上に逃げるか、下に逃げるか、その方向を決めるには、最終的に自分がどうなっていたいか、老後の自分、5年後、10年後の自分を思い描いて、そうなるために、何が必要で、これから何をしていくべきか?
本当にやりたいこと、本当になりたいものが何かわからず、見つけられないまま大人になってしまって、なんとなく面白そうだと思うことや、好きなことに携わって生きてきたつもりだけど、これっていうのは特になかった。
正直に言うと、いちばんの夢は結婚して家庭を持ち、いい奥さんお母さんになりたかった。けど、結婚のけの字もないままアラフォーになってしまった。
努力で叶えられるものとそうでないものがあるだろうけど、この幼い頃からの夢を叶えられなかったのは、私自身が幼く、未熟で、それに反して異性の理想が高く、相手に多くを求めすぎてしまったからに他ならない。
今までお付き合いしてきた中で、私のことを大切にしてくれた人はちゃんといたし、自分に欠けているものを補ってくれるタイプの人もいた。でも私はあまりに多くを相手に求めすぎたのだ。
中には二股したり浮気したり暴力ふるったりする人もいたけど、そういう過去にとらわれすぎて、出会った人を誤った視点から見ていた時期もあった。
別の人に裏切られた過去を引きずり、目の前にいる相手を信じることができず、常に疑いの目を向けることしかできない時期もあったし、男性を信じられないのはもともと父との関係が悪いせいだからという考えで父を憎んだりもした。
でも、結局そんなことを続ける限り、前には進めないのだ。
どんなに悔やんでも願っても祈っても過去は変えられないのだから。
そして許せないことを無理に許す必要もない。
渡辺和子さんの本にも書いてあったけど、神様に人生を捧げて生きている方だって、許せない人がいるのだ。人間は完璧じゃない、だからこそ、その不完全な自分を受け入れて自分自身が愛してやらなければ…許せない人がいることも、不完全な自分の一部として。その方が人間らしい。
そんなわけで、なんだかいつも以上にとりとめのないことを書いてしまったけど、私がブログを書くのは考えにラベルを貼って、いつかファイルに分けるため。
今はまだ、ただの紙の集まり。(紙媒体ではないが、喩えとして)ただの脈絡のない文章の寄せ集めだ。
でもいつか、自分の経験したことを社会に役立てる日が来ることを願って、臭いものに蓋をせず、これからもいろんな想いを書き綴っていきたいなぁと思います。
今日はなんだかいつも以上に明るい展開だ。
毎回できるだけポジティブな方向で文章を締められるように心掛けてはいるんだけど、今日はいい感じです。
今日は、このカレンダーの中でも特に好きな言葉に励まされたおかげかもしれない。
昨日から強風で、西の山から吹き下ろす風にさらされて、家がギシギシいってますが、日も暖かく、庭の梅に集まる小鳥達を見て、春の訪れを感じました。
私の心の中にあるネガティブな感情もすべて吹き飛ばしてほしいもんです。
お日様ポカポカ。
マッタリマッタリ。
自分の中の壁を壊す時がやってきた…のかな
ここ最近、あれこれ行き詰まってる感じがする。
というか、職探しに行き詰まりを感じている。
正社員雇用とかはとっくに諦めててバイトやら派遣やらで働いてきたけど、それもどうもうまくいかなくて、他人や環境のせいにばかりしている自分にも嫌気がさすのだけど、好きなことや得意なことを役立てて働きたい気持ちはあるのに、自分の磨いてきたスキルをうまく発揮することができていない。
そもそも離職率が高いと言われる職種で、さらにいつも求人情報に名を連ねている企業ばかりを選んでいるので、労働環境の悪さはある程度想定しているんだけど…。
結局自分のスキルを活かせる職種で働こうってなると、年齢的なものもあるし、少ない企業の中からほとんど選べる状態ではないのが現状。
過去のトラウマだったり、苦手意識だったり、そういった諸々のしがらみを少しずつ取り払っていかないと、この先たとえパートでも安定して働くことなんかできないだろうな。
いろんなお客さんがいるから、多少嫌なことがあったり、ワガママ言われても、自分のお給料はこの方達からも貰っていると思って対応できるけど、中にはわけのわからない言いがかりをつけてきて、その悪意に命の危険を感じた事もある。
(具体的に言うと、店の入り口の駐車禁止スペースで雪かきをしていたらお客さんのクルマが突っ込んできて、私にぶつかる寸前で止まり、なぜか私が怒鳴られた。もちろん入り口から近い、雪かきを終えた駐車スペースはあいてました…嫌がらせの域を超えてる。完全に異常です。)
でも、そういうのはごくごく稀で、1年に一度も起こらないはずのことで、たまたま運悪くそういう人に当たってしまったのだと思うようにしてるけど、そういうひとが常連さんだったりすると、常に怯えながら仕事をする羽目になるのでさすがに無理。
こういう人は、自分より弱い立場の人間を見つけたら日頃の鬱憤を晴らすために徹底的に嫌がらせをしてくる。一度目をつけられたら避けようがない。どんなにきちんとした接客を心掛けても重箱の隅をつつくように、あれこれ因縁をつけてくるのだから…。
従業員の方が弱い立場だからとか、女だからって見下した態度であれこれ言ってくる人は東京よりは少ないけれど、長いこと接客業やってて車でお客さんに脅されたのは初めてだ。
店中に響き渡る声で怒鳴り散らされても、もともとの落ち度がこちらにあったのなら誠意を持って謝罪するけれど、買い物に来るお客さんのために雪かきしてたのに撥ねようとするなんて、しかも撥ねようとした人が跳ねられそうになった人を怒鳴りつけるなんて、道路に飛び出したのならこちらが悪いけど、駐車場では車が歩行者を守るべき場所なのにどれだけ人格歪んでるのと思う…。
警察にも相談しましたが、その場ですぐに通報しないとダメみたいです。心の傷を負ったとか言っても、身体に怪我がなければただの泣き寝入りです。訴えるにしてもあんまり騒ぎ立てて他の従業員が嫌がらせを受けたり、刺されたりしたら最悪の展開だし、かといって、いつ来るかわからない頭のおかしい常連客に怯えながら仕事をするのは耐えられそうにないので、辞めることにしました。
その職場では他にもいくつか問題を抱えていて、オーナーから肩や背中を触られたり、同じ時間にシフトインする人と全く合わない上にそいつがすぐサボるし…、けれどそういう無理だと思う限界を自分の中で少しずつ壊していかないと、どこにも働きに出れない。
または、これが得意だからとか、これが好きだからこういう仕事をしようって決めつけずに、新しいことにも挑戦してみる。
食わず嫌いでいたものが、意外と自分に合っていた、なんて事もあるかもしれない。
視野を広げて、新しい一歩を踏み出してみること。それから、過去にとらわれすぎないこと。
仕事を通して社会に貢献するだけじゃなくて、生活を安定させるための仕事としても、見方や考え方を変えていかないと、八方ふさがりになりそうなのでここに書き記しておく。
誰かを幸せにしようとか大それた事じゃなくて、まず自分が幸せになるために仕事=生活を安定させる。誰かを幸せにできるのはその土台ができてからだよね。
愛するおはぎちゃんのためにも、まず私が幸せな働き方を見つけなきゃ。
気負いすぎない程度に少しずつ。
ジレンマを乗り越える
東京から田舎に移住して、色々な職場を経験した中で感じていた、ひとつのジレンマ…。
東京のデパートで働いていた経験を活かして、近所のスーパーのレジの仕事に就いたが、全てのお客様に、通り一遍なマニュアル化された用語・動作での接客を強要され、ひどい違和感を感じた。
具体的に言うと、このセリフを言う時はお客様の顔を見て、このセリフを言う時はお金を見る…というように。
ポイントカードをお持ちかどうかも、決まったタイミングで、決まった文言でやり取りをする。
お預り金額の確認のしかたや、お札の取り方、数え方から返し方まで、全てマニュアルで決まっており、その通りにやらなければならない。
ロボットみたいな接客。
これが、最初の感想。
今までやってきた接客とは真逆のもので、とても窮屈な感じがする。
そして、この記事を読んで、自分の考え方が悪いわけではないと納得した。
レジ 接客のマニュアル大公開 | レジ接客をさらに3倍よくするマル秘術を特別に紹介!
田舎の人材教育とは、マニュアルを徹底することであり、都心の人材教育とはマインドの向上であると分析した。
思うに、田舎のレジチェッカーとは、チェッカー検定に通用する内容での接客を教育している。
その土地に合ったやり方なのだろうけど、臨機応変さが求められる戦場みたいに混雑する店で働いていた身としては、ガチガチに固まった接客トークなど窮屈極まりない。
結局、住む土地が変わっても、今までの経験の中で培われた仕事に対する価値観は変わらないという事なのだろうな。
そしてその環境で働くのなら、そこに適応しなければならないけれど、私にとってそれは退化することと等しい。
慣れればどうってことないのかもしれないけれど、今まで無意識でやっていたものを全部新しいものに置き換えるとなると…慣れるのが大変だ。ものすごいエネルギーとストレスがかかるし、自分が良いと思えないものにそんな労力使いたくない。
そんなわけで、セルフレジが普及し始める昨今、コンビニまでもレジをロボットが行うようになる近い未来、機械化されていく職種にしがみつくのはやめて、これから先必要になってくるであろう新しい仕事に挑戦してみようかと考えたのだった。
掃除でリセット、快適習慣のすゝめ
この間の日曜日、台所の片付けをした。
食器やキッチン用品で、ここ一年くらい使ってないものや、ほとんど使わないものを整理して、シンクの脇にある引き出しをスッキリさせた。
開ける度に引っかかるおろし金は未だに使わないけれど、捨てるのも勿体無いので引き出しの奥に入れた。
時々使うハンドミキサーは台所の高いところに置いていたのを取りやすい場所に移動。
自分用の箸やスプーンなどはカトラリーケースにまとめた。
年に一度使うか使わないかのゴムベラや製菓用の泡立器、ポテトマッシャー、スペアの二重茶こしや猫用のスポイトなどはカゴに入れて台所の最上段へ。
予備のスプーンなどはミニポットに入れて食器棚へ。
子供用のスプーンは妹にあげることにする。
その後ソファスペースにホットカーペットを移動したので寝室のカーペットと床に掃除機をかけた。
掃除機の苦手なおはぎちゃんは避難しつつ見物。
まだ寒いし雪も降るから石油ファンヒーターは欠かせないけど、ぼちぼち春支度も兼ねて…時々模様替えして過ごしやすいスペースを見直すのだ。
気持ちを入れ替えるためにも、生活の中で大切にしたい空間を見直し、リセット。
これで仕事も頑張れる。
お掃除の途中で思わぬご褒美を拾得。
神様に感謝して、また西側の窓をしっかり掃除しようと決心。
風水の勉強したいなぁ。
死にたい理由と生きたい理由
今日は朝から父のラジオの音がうるさくて目が覚めた。
不快な目覚め。一階から二階に向かってラジオがうるさいと文句を言った。なぜわざわざ今日にかぎってラジオをつけるのだろう?
大事な仕事があるし、昨日は雪かきで疲れたからもう少し休みたかったのに。
とりあえず気を取り直して雪の様子を見に外に出て、車の上に積もった雪をどかし、ほんの少し車の出し入れに不自由ない程度の雪かきをする。
ついでなので玄関先から庭をぐるっと回るコースの雪を軽くどかし(といっても昨日の作業で握力がないのでスコップで押し出す程度)外の猫たちとお話しして、家に入ろうとしたら玄関に鍵がかかっていた…。
朝起きて、そのまま上着を羽織って出てきたので鍵など持っていない。それなのに、玄関に鍵がかかっている。車の鍵も携帯も、もちろん部屋の中だ。
昼から仕事なので鍵が開くのをのんびり待つほど暇じゃないし、なにより寒い。
鍵と携帯が部屋にある以上、家のドアを叩く以外に父に気づいてもらう方法はない。
ご近所さんに電話を借りるとかは本当の最終手段だ。
ただ…鍵を閉めたのはなぜだろう?
娘が外で雪かきをしているのになぜ玄関の鍵を閉めるんだろう。
結局玄関のドアや風呂場、トイレの窓を叩いて回ったがいっこうに鍵が開く気配がなく、二階の窓に向かって雪玉を投げた。
しかし粉雪で柔らかく、素手で雪玉を作るのが辛い。
さすがに冷たすぎて雪玉を作れなくなったので玄関先にあるプラスチック製の小物を窓に投げる。
雪かきに使っていた箒も投げる。
窓ガラスは強化ガラスなので多少のことでは割れないが、雪かきしていて締め出された怒りにまかせて割ってやりたくもなる。
一階の窓を叩き割って部屋に入ることもできるが、修理にお金がかかるし、ご近所で噂が立っても困る。まぁ、玄関先でドアを叩いて、開けて!と叫び続ければ窓を破らなくとも噂にはなるだろうが。
呼べど叫べど叩けど投げれど、いっこうに鍵が開く気配がなく、今日は大事な仕事もあるのに、なんだか心底悲しくなってきて玄関先で泣いた。
どうしたらこんなひどい仕打ちができるんだろう。
うっかり鍵を閉めるということは確かにあるとは思う。けど、これだけドアを叩いたり呼んだりしても気がつかないのは考えにくい。
父はそこまで耳は遠くない。
宅急便の人に気づかない事もたまにあるが、ドアを強く叩いたり呼んだりすればたいてい気がつく。
しかし今日はいくら強く叩いても呼んでも全く出てくる様子がない。部屋で倒れているのかと少し不安にもなるが、そうではないだろう。
自分には長い時間に感じたが、おそらく15分か20分くらい経った頃か、玄関のドアのガラス部分を叩き続けたらようやく鍵が開いた。
イヤホンで何かを聴いていたから聞こえなかったそうだ。
ドアを叩いたり蹴ったりする振動でも、気がつかなかったのか?そんなはずはないだろうと思う。父はそこまでボケてはいない。気がつかなかったと言えば悪意がないと言い訳ができる。それだけの事だろう。
そしてドアを閉めた父はもちろん何も言ってこない。
こちらから何か言う事ないの?と私が言ったら、ごめんごめん、と心にも無いような謝罪の言葉を言われた。
そのやり取りをして、なんとなく、わざと鍵を閉めたのだと察してしまった。
父は、昔飼っていた猫が風呂場に落ちた時も、勝手に風呂場に入ったから懲らしめるために(父が「懲らしめるため」と連れて行った動物病院で先生に言ったのだ)濡れた毛を乾かしてやらず、その猫は結局死んでしまった。
私に対しても、ラジオがうるさいと文句を言ったので、おそらく仕返しで締め出したのではないかと思う。
父はそういう人なのだ。
昔はもっと暴力的でひどかったし、子どもが言うことを聞かないと子どもの大切にしているものを破壊したりした。
中学生の頃、学生カバンを父に壊された。革でできている硬いやつだ。ものすごい馬鹿力だと思うが、父は素手で引きちぎった。
ベッドの下に隠していた藤本ひとみ先生のコバルト文庫の小説もビリビリに破かれた。
弟もいつだったか、ミニ四駆を自分で壊すように命じられた。母はそんな父に逆らえなかった。そんな目に合わなかったのは妹だけだったかもしれない。
だから、母も父のモラハラによって精神を病んでしまったし、弟も母の死に責任を感じて病んでしまった。2人とも、当時住んでいたマンションの9階から転落して亡くなったのだ。私は事故だったと思いたかったが、警察の調べでは自殺だった。
私も、今日は久しぶりに死にたいという思いに駆られた。なぜ死ぬか?父への当てつけだ。母を殺し、弟を殺した父のモラルを否定するためになら自ら命を絶ってもいいかと思う時がたまにある。
けれど、そんなことをしても、父は変わらないだろうとも思うのだ。母と弟を亡くしても変わらない父には私の死を持ってしても無駄だろうと思う。それこそ無駄死にってやつだ。雑魚キャラがフリーザに向かって行くようなものだ。
私はおはぎちゃんのために生きることにしたのだから、この子のためにも自分の人生を、生活を大切にしなければ。
こんなふうに暮らしていかなければならないなら、やはり家を出たいと思ってしまう。
父は好き勝手にやればいい。
私は父のせいで精神を病むなんてもうお断りだ。
しかし、高齢の父を1人残して家を出ることは、家族のあり方としては間違っている。
父への恨みが消せないのに一緒に暮らしていても苦しくなるだけなのに。
どうあるべきか、考えるまでもない。私が耐えなければいけないのだろうな。
許せれば楽になるだろうけど、許せない事だってある。そしてその許せない人と暮らさなければならない苦しみを乗り越えたら、何かがあるのかな?
喜びではないだろう、ただ、ああ、苦しいところ、終わったな。という程度だろうな。
死にたいと思う時は何度もあったし、これからもきっとあるだろうけど、やっぱり一度きりの人生だから、苦しい部分も含めて生きてやろうと思うんだ。
人生には苦しみしかない、そう言ったのは仏陀だったか…?
愛しき日々
相変わらず寒い日が続き、今日は朝から雪。
昼過ぎ一瞬やみそうな気配もあったけど、また降り続き、結局夕方頃に早めの雪かきをした。
明日は変更できない大事な仕事があるので、遅れたり行けなくなったりしたら大変だ。
今夜のうちに積もってしまったら、明日の午前中には雪かきをしないと仕事に行けない。
春先や梅雨の時に庭の土がベチャベチャになるのは仕方ないけど、雪は本当に困る。雪は大好きだけど、仕事に行けなくなるのがとにかく困る。
とはいえ、こんな不便な土地に暮らしていても、やっぱり田舎が好きだなぁと思う。
話は変わって、最近おはぎちゃんがますます甘えん坊で、寒いせいもあるが、遊び飽きると膝の上に乗ってくる。
ファンヒーターの温風があたるところや、ホットカーペットの上に置いたおはぎハウスで寝るときもあるけど、膝の上に来る頻度も高くなった。
私の膝にちょこんと座るうしろ姿は、まだ子猫のあどけなさが残っていてとても愛らしい。
この子が何をしていても、可愛くて可愛くて仕方がない。
最近は、私の髪をグルーミングまでしてくれるようになった。
もしかしたら髪染め液のなんらかの匂いが気になるのかもしれないけど…一生懸命グルーミングする仕草が可愛くてたまらない。
毎日幸せだなぁと思う。
最近どうしてこんなに安定しているのか理由を考えてみたけど、以前記事に書いたこと以外に、毎日ではないが、セントジョンズワートのお茶を飲み始めたせいもあるかもしれない。
セントジョンズワートはうつに効果があるらしい。カルディのハーブティのコーナーに普通に売っているのでうつに関係なくても飲んで大丈夫です。それに、なによりとっても美味しいのだ。
夜はコーヒー禁止にしているのでハーブティかほうじ茶などを飲んでいるのだが、カフェイン摂取時間を決めたおかげか以前よりはよく眠れる。
たまに尿意や皮膚の痒みで目が醒めるが、浴槽にしっかりつかり、ベビーオイルでしっかりマッサージと保湿をして、お風呂上がりにスキンミルクを塗ったら昨日は痒くならなかった。
乾燥で皮膚がボロボロなので、めんどくさいけどもっとちゃんとお手入れしなければ。
幸い昼の仕事に変えてからというもの、時間はたっぷりあるので、自分の身体のメンテナンスもしっかりやっていこうと思う。
そんなわけで、最近だいぶ、調子がいいです。
早く仕事が安定して、たまには美味しいものを食べに行けたらな〜というのがここ最近のささやかな目標?です。
お寿司焼肉ハンバーグ、お腹いっぱい食べたいよう。
108件の記事と、それより多い煩悩の数
ブログを始めてそろそろ1年が経とうとしている。にもかかわらず、すでに記事は108件になってしまった。
削除した記事もあれば、下書きだけでそのままになっている記事もあり、喜びを綴った記事もあるが、それらはごく稀で、この1年(実際はそれ以上前からだが)ずうっと仕事や人間関係や生活のことで悩み続けていた。
最近は不思議なことに、何かが吹っ切れたように気持ちがさっぱりしている。
今まではとにかく足掻いて足掻いて、ジタバタして悩んで、またジタバタしてといった感じだった。今は、さんざんジタバタしてきたけどよけいに溺れただけのような気がするので、おとなしく水面に浮かんでいるような状態。
水面が穏やかな時は、自分の行きたい方向に舵を取れるが、波が荒れて風が吹き荒ぶ時は、いくら水面を掻いても無駄。
せいぜいできるのは、船が沈まないようにしっかりとバランスを取るようにすることくらいかもしれない。
これらはあくまでも喩えだが、人生の波というか、運気の流れや何かしらのエネルギーというのは水のような状態なのかもしれないと、最近思うのだ。
コップからコップに水を注ぐ時、勢いよく入れればこぼれにくいけれど、あまりにゆっくりと注ぐとコップのフチを伝い水がこぼれてしまうように…先日の記事にも書いたが、勢いがついている方が物事がうまく行くのもこういう理由のように思える。
よく人間のマインドの状態をコップに喩えられる事があるが、人間の心がコップなら、気の流れは水のようなもので、心が(プラスでもマイナスでも)いっぱいだと受け取れないけれど、少なければ受け取る事ができ、そしてそのコップという器は、いろいろな苦しみや経験を乗り越えることにより、拡げることができる。
そう考えると、人間の器が大きいとか小さいとかいう表現は、言い得て妙だ。
そして流される生き方がいちばん疲れなくて楽なのもわかる。
言葉とは不思議だな〜と改めて思う今日この頃。
そんなわけで、(どんなわけだか?)西からの風が強くお天気が良かったので、少しの時間だけ西側の窓を開けて、窓を掃除した。
なぜ西かって?
そりゃあ金運アップです。
小林正観さんの本に、金運アップを期待してトイレ掃除などをするのは悪いことではないと書かれていたので、今日は私にしては珍しく、こういう理由でお掃除しました。
お金も人間が生きていく上で欠かすことのできない大きなエネルギーなので、それらを受け取る準備をしていこうと、最近はそのように感じるのです。
都会で暮らしてたらこんな風には思えなかったかもしれない。何にもない田舎に住んでいると、生きていくってなんなのか、すごく考えるし自然の力を強く感じることができる。
仕事探しは本当に大変だけど、ど田舎万歳です。