生かされているということ
沈んだ気持ちで夕焼けを眺めながらぼんやりと過ごして、その時の気持ちそのままにブログを書いた。
その後は、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴きながら、先日購入して棚に置きっ放しだった本を読み始めると、不思議なことに、鬱々とした気持ちが、清々しいくらいの爽やかな言葉によって吹き飛ばされてしまった。
なんて単純な…と、自分でも思うのですが、実際そうだったので、どうして今までこの本を読まずに居たんだろうとも思った。
今の私だから、この言葉を受け止めることができているのかもしれない。
とにかく、気持ちのスイッチが切り替わったので、音楽をドビュッシーの月の光にして、また本を読み進める。
ふと、美しい音色に包まれて、このまま息絶えてしまってもいいように思える…。
目を閉じて、天井から首を吊る自分の姿を想像してみる…。
発情期のおはぎちゃんが鳴きながら部屋中を走り回る音が聴こえる。
小さくて、暖かい、私の鼻の頭や手をペロペロと舐めてくれる、親愛の情に満ちた優しい子。
この子をひとりぼっちにさせてなるものか…と、思うと涙が出てくる。
大切な人も…向こうがどのくらい私を想っているかはわからないけれど、私が居なくなったら辛いことがあった時、抱きしめてあげることもできなくなる。
妹も、母や弟と、私まで居なくなったらどんなに悲しむだろう。それに、甥っ子達にとって良き理解者であろうとしている私が居なくなったら…?
大切な人達のことを考えたら、涙と鼻水が止まらなくなって、死んでる場合じゃないぞって思った。
でも、重要なのは、彼らにとって私が必要であるかどうかではなく、私にとって彼らが必要なのだ。
私が大切だと思う人たちによって、私が生かされている。
おはぎちゃんのために生きているのではなく、おはぎちゃんが居てくれるから生きていけるのだ。
私の大切な人たち、私に命を与えてくれてありがとう。ちゃんと全うして、いつかこのご恩が返せるようになるから、見守っていてね。
うん、大丈夫だ。
私は生きる気力を取り戻した。
書斎のお気に入り本棚の前で。
このあと座布団とクッションにシッコしちゃったおはぎちゃん。
怒られて?しょんぼり中…?のおはぎちゃん。ティーポットを置く鍋敷きに鎮座。
発情期のせいか、枕や布団の上等々、あちこちでオシッコするので洗濯が大変です。
父に怒鳴られるよりおはぎちゃんのオシッコの方がよっぽどいいですけど。