つぶやきノート

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無条件の愛とは

おはぎちゃんを見ていて、無条件の愛、という言葉が頭に浮かんだのでググってみた。

 

先日読んだアドラー心理学にもそういえばあったような気がする…。

 

自分自身を無条件で愛すること
条件付きの愛は承認欲求という苦しみを生むこと

 

今自分が置かれている状況と、この言葉から感じたこと…

 

父との親子関係は、条件付きの愛だろうと思う。

 

父は、父の望む生き方をしていれば認めてくれる。幼い頃からずっとそうだった。

勉強にしても部活にしてもバイトにしても、父の望む通りにしないと認めてもらえなかった、いや、正確にいうと認めてもらえたわけではない。望む通りにすれば否定されなかったし、大ごとにならなかった。ただそれだけのことだった。

 

幼い頃は怖くて従うことしかできなかった。逆らうつもりはなくても、父の意にそぐわないことをすると、こっぴどく叱られた。小学生の頃から一晩中玄関に正座させられたり、夜中に外に放り出されたり…今考えてもそこまで叱られるほど酷いことなんてしていないのに…当てつけにマンションから飛び降りてやろうと何度も思ったが実行には移さなかった。

 

高校に行き始めて、アルバイトを始めたり、少しは自分の力でできると思えることが増えてきて、仲間も増えて、精神的にも少しは視野が広がり大人になってくると、父の意は時に間違いであることがわかり、親という立場を利用して自分の考えに従わせようとする父に反発を覚えるようになった。

取っ組み合いの喧嘩になるようなことも度々あった。父は母にも厳しく、食事に文句をつけたり、味噌汁を壁に投げつけたりすることも度々あった。ちなみに父は料理人とかではない。

 

 

今思うと、とことん不器用で言葉が足りず、暴力や暴言で人を従わせようとするのは、父だけが悪いわけではなく、父が関わってきた環境のせいでもあったのだが…。

それを踏まえても、妹には優しく寛大で、私や母にはとことん厳しく、理不尽な思いを何度もしてきた。その辛さは経験したものにしかわからないだろう。妹を恨んではいないが、父のことはやはり恨んでしまう。

 

私は、父から愛されるだけの条件を満たしていなかったのだろうか?

それはなぜだろう。

 

そんなこと、わかるはずもなく、知ったところでどうにかなるものでもなく、さんざん切り刻まれてきた心の傷は癒されない。

 

 

昔、ある人も、条件付きの愛を求めてきた。

私の個性を認めず、自分の理想とする状態でいることを強制された。それは徐々にエスカレートし…私は猛反発した。あとは、言わずと知れた展開になった。

 

愛とはなんだろうとずっと考えてきた。

そしてこんな私が親になれるとも思えず、父と同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖が歳を重ねるにつれ大きくなってしまい、結婚したいと思えなくなっていった。

 

一昨年亡くなったけれど、溺愛していた猫がいた。躾に厳しく育てた部分もあるが、私にとって本当に大切な子だった。慈しむという言葉は、この子と私の関係にぴったりだと思う。

 

そしておはぎちゃん。

トイレでもなんでも覚えるのが早くて、どこでも登れるし、なんでもする。大事な手帳や本やしおりも室内用のメガネも噛むし、今年買ったばかりのお気に入りのカーテンはボロボロにされた、ゴミ箱の中身を出したり、寝ている時に顔をパンチしたり、飲みかけのお茶が入ったコップに手を突っ込んだり、そのコップのふちに足をかけて歩き回ったりする。

しかし、怒れない。なぜだか怒ろうという気になれない。

良いことか悪いことかは別として、この子がやることなすこと全てが愛しくて、見ていて飽きない。

不思議な感覚だと思う。

 

これはなんなんだろう?

まるで自分が産み落とした子供のように、成長が喜びであり、おはぎという存在そのものが、私の人生に色を塗っている。

 

マロ君が居なくなった世界は白黒で面白味がなく、感動に薄れる。なんのために、誰のために生きていけばいいのかと思うと虚しくて涙が出る日もあった。

けれどおはぎちゃんが全てに喜びを与えてくれる。おはぎがゴミ箱から引っ張り出したティッシュでさえ、かわいくて記念撮影してしまうほどに。

  

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おはぎちゃんと過ごす時間は私にとって喜びであるとともに、リハビリでもあるかもしれない。愛とはなんなのか、この子との関わりを通して学んでいくのだ。

 

自分自身を無条件に愛することができるようになれば、私はもっと変われるのだろうと思う。

 

そして今日も、おはぎちゃんと出逢えたことを感謝する。

 

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