気だるさからの脱出
ずうっと悶々としてて、自分の殻にこもっていたけど、久しぶりに嫌々仕事に行ったら少し気が晴れた。
最近ひとりごとみたいな内容がとっても多いけど、溜め込むよりは吐き出そうって事で、これでいいのだ。
たとえば、なぜあえて人目に触れにくい設定にして、ブログを書いているか…?
日記は家族にみられたら困る。
あと、完全にシークレットな状態でブログを書いててもつまらない。もしかしたら誰かに見られているかもという緊張感も、記事を書くときは大切だと思うので。
それに、シークレットにしてしまうと、いつか見返したいと思ったとき、ログインしないと見れないんじゃあ困る。メアド変えてもパスワード忘れても見れる状態にしておきたい。
ネットでも不必要な情報が氾濫しているけど、このブログは道端の小さな石ころみたいに、目立たずに存在できればいいと思う。
何人と繋がりたいとか、ブロガーさんのお友達増やそうとか、アクセス数伸ばそうとか、そういう目的は無く、ただ、良いことも悪いことも含めて、思いの丈を綴るための場所として大切にしたい。
昨日や一昨日の自分が書いた記事を読み返して辻褄の合わないこと呟いてるなぁこの人、と、自分を客観視できるのもブログならではだ。
さらに言えば5年後10年後、20年、30年と経ったときに読み返して、当時の自分がどんなことで悩んで、どんな生き方をしたいと望んでいたのか、稚拙な文章と共に残しておきたい。
おはぎちゃんのかわいい写真も添えて。
自分勝手な考えを呟くことで、心の深くにあるものを解放できたらいいな
いろいろ好き勝手書いている。
あくまでもここだけです。
拡散されることは望んでいません。
最近は過去について触れることが多い。
自分の内面にある闇も、表に出して光を当てれば闇じゃなくなるんじゃないかな。
鍵付きの箱の中にしまっておくと、影って闇が濃くなる。けど、蓋を開けて四方から光を当ててやると、影は無くなり、闇は逃げていくかもしれない。
物理的には。
心は形がないものだけど、そういう言葉で表現されている以上、試してみる価値はあるんじゃないかって。
無条件の愛とは
おはぎちゃんを見ていて、無条件の愛、という言葉が頭に浮かんだのでググってみた。
先日読んだアドラー心理学にもそういえばあったような気がする…。
自分自身を無条件で愛すること
条件付きの愛は承認欲求という苦しみを生むこと
今自分が置かれている状況と、この言葉から感じたこと…
父との親子関係は、条件付きの愛だろうと思う。
父は、父の望む生き方をしていれば認めてくれる。幼い頃からずっとそうだった。
勉強にしても部活にしてもバイトにしても、父の望む通りにしないと認めてもらえなかった、いや、正確にいうと認めてもらえたわけではない。望む通りにすれば否定されなかったし、大ごとにならなかった。ただそれだけのことだった。
幼い頃は怖くて従うことしかできなかった。逆らうつもりはなくても、父の意にそぐわないことをすると、こっぴどく叱られた。小学生の頃から一晩中玄関に正座させられたり、夜中に外に放り出されたり…今考えてもそこまで叱られるほど酷いことなんてしていないのに…当てつけにマンションから飛び降りてやろうと何度も思ったが実行には移さなかった。
高校に行き始めて、アルバイトを始めたり、少しは自分の力でできると思えることが増えてきて、仲間も増えて、精神的にも少しは視野が広がり大人になってくると、父の意は時に間違いであることがわかり、親という立場を利用して自分の考えに従わせようとする父に反発を覚えるようになった。
取っ組み合いの喧嘩になるようなことも度々あった。父は母にも厳しく、食事に文句をつけたり、味噌汁を壁に投げつけたりすることも度々あった。ちなみに父は料理人とかではない。
今思うと、とことん不器用で言葉が足りず、暴力や暴言で人を従わせようとするのは、父だけが悪いわけではなく、父が関わってきた環境のせいでもあったのだが…。
それを踏まえても、妹には優しく寛大で、私や母にはとことん厳しく、理不尽な思いを何度もしてきた。その辛さは経験したものにしかわからないだろう。妹を恨んではいないが、父のことはやはり恨んでしまう。
私は、父から愛されるだけの条件を満たしていなかったのだろうか?
それはなぜだろう。
そんなこと、わかるはずもなく、知ったところでどうにかなるものでもなく、さんざん切り刻まれてきた心の傷は癒されない。
昔、ある人も、条件付きの愛を求めてきた。
私の個性を認めず、自分の理想とする状態でいることを強制された。それは徐々にエスカレートし…私は猛反発した。あとは、言わずと知れた展開になった。
愛とはなんだろうとずっと考えてきた。
そしてこんな私が親になれるとも思えず、父と同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖が歳を重ねるにつれ大きくなってしまい、結婚したいと思えなくなっていった。
一昨年亡くなったけれど、溺愛していた猫がいた。躾に厳しく育てた部分もあるが、私にとって本当に大切な子だった。慈しむという言葉は、この子と私の関係にぴったりだと思う。
そしておはぎちゃん。
トイレでもなんでも覚えるのが早くて、どこでも登れるし、なんでもする。大事な手帳や本やしおりも室内用のメガネも噛むし、今年買ったばかりのお気に入りのカーテンはボロボロにされた、ゴミ箱の中身を出したり、寝ている時に顔をパンチしたり、飲みかけのお茶が入ったコップに手を突っ込んだり、そのコップのふちに足をかけて歩き回ったりする。
しかし、怒れない。なぜだか怒ろうという気になれない。
良いことか悪いことかは別として、この子がやることなすこと全てが愛しくて、見ていて飽きない。
不思議な感覚だと思う。
これはなんなんだろう?
まるで自分が産み落とした子供のように、成長が喜びであり、おはぎという存在そのものが、私の人生に色を塗っている。
マロ君が居なくなった世界は白黒で面白味がなく、感動に薄れる。なんのために、誰のために生きていけばいいのかと思うと虚しくて涙が出る日もあった。
けれどおはぎちゃんが全てに喜びを与えてくれる。おはぎがゴミ箱から引っ張り出したティッシュでさえ、かわいくて記念撮影してしまうほどに。
おはぎちゃんと過ごす時間は私にとって喜びであるとともに、リハビリでもあるかもしれない。愛とはなんなのか、この子との関わりを通して学んでいくのだ。
自分自身を無条件に愛することができるようになれば、私はもっと変われるのだろうと思う。
そして今日も、おはぎちゃんと出逢えたことを感謝する。
働くってなんだろう?〜心のままに書き綴り、本当の望みを見つけよう
今日は朝からずっと雨が降って肌寒く、窓から外を見ても白っぽい視界に遮られる。
気持ちが滅入っているせいか、普段は雨の音や雨が作り出す静けさの響きに耳を傾けると心が静まるのに、今日は浮かない気分で、まるで靴や靴下やズボンの裾が雨でびしょ濡れになり、それを引きずって歩いているような、そんな感覚。
心の中までどんよりと重く湿ったまま、いろいろな思考を巡らせても、ポジティブにはならない。
けれど、温かい思考回路ではなく、落ち着き、現実を直視した上で、慎重に冷静に、そして負の自分の存在を認めた上で考えた結論が前向きなものならば、それは素晴らしい熟考だったと言えるはずだ。
ポジティブすぎず、ネガティブすぎず、それは何かを決める上でとても大切な事じゃないかと思うのだ。
働く時間について、職種や、月々どのくらい必要になるか、また、どこで暮らすか、それから、自分は何になりたいか、何がしたいか、生き方や働き方としてどうありたいか、どうあるべきかを考えたり調べたり、他人の意見や考えも参考にして…今日見つけたのはこんな意見。
お金のためだけではなく、なんのために働くか、という問いかけの中でとてもしっくりきた答え。
・社会と繋がりたい
・自分を好きでいたい
どんな働き方をするか。
・人々が求めるものを提供する
(世の中の需要と供給のバランスに沿ったものであることが大切だし、それを満たすことによって↓が叶えられるはずだ)
・幸福度の高い働き方
さらに理想の働き方として定義されているが
・自分の得意なことで
・社会の需要を満たし
・働く喜びを得る
という流れになる。
問題は、得意なこととはなんぞや、ということ。
強いて言えば片付けだが、これは現在資格取得のための勉強中である。
そしてこの片付け、片付けられない人というのをネットなどでもよく見かけるが、需要はあるはずだけど、経験を積む場所が極端に少ない。
特にこのへんの田舎になるとほぼ無くて、資格持ってる方が独立して自営でやってるケースが多い。
結局、これはすぐさま収入に結びつけるのは難しい、準備期間が必要な職種であることがわかる。
では、さしあたってどうやって収入を得て、それを生活の糧とするか…。
やっぱり今までやってきたこと(経験)を活かせるところがいちばん負担が少ないように思う。
例えば新しいことに取り組もうとすると、学ばなければならないことが圧倒的に多いので、それプラス日々の生活でいっぱいいっぱいになり、勉強どころじゃない。さらに言えばこの働き方は息抜きタイムの割合も大きくないと回らない。
そういう環境の中でそれを成し遂げる人もいるが、私はそこまで強い意志の力を持っているわけではないので、自分の身の丈にあった方法でやっていこうと思う。
ということで…。
実家を出て生活するための資金を得るために、自分の経験を活かして働く。
働く前に考えること
何する?
ていうか時給は?
週にどのくらい働ける?
どのくらいの収入を想定する?
勤務地は?
求人ある?
入ってから思い悩むであろうこと
人間関係
仕事の内容
募集内容と相違する勤務条件
仕事が楽しめるか
客層は?
などなど…。
ある程度は想定してみるが、実際に殴られるのと想像で殴られるのとは全く違うので、無理ならやめればいい。
我慢して続けることに意味はない。
そのエネルギーはもっと違うことに使った方が効率的だ、勝てない勝負にいちばん大切なカードを投入したところで、取られるのがオチ。
勝負の世界には(?)潔く負けを認めることも必要…というわけのわからない理論でごまかしてみる。
でも実際、無理な職場で精神すり減らして努力努力努力しても、それが実るだろうか?何に自分のエネルギーを使うか見極めることも働く上で重要だと思う。
しんどい場所でも続けられるかどうかはその人の性格や経験もあるのでくれぐれも無理はしないことだ、逃げグセがつくと良くないって意見もあるけど、逃げるか残るか迷ったら、なんのために働くのか?という問いかけを自分にしてみるといい、そして、その答えと現状をよく見極めれば行方は予想できるはず。頑張って社畜として働き続ければ奇跡が起きるかもとか思わない方がいい。
仕事辞めても命がある限りやり直せるから。
経験者です。もう何社辞めたかわかりません、履歴書には書けないほど短い期間でね…。
あれ?本題逸れちゃった。
とにかく、働くって自分にとってなんなのか、世間の一般常識を無視して自分の答えを見つけた方が、生きていく上で必要なものとそうでないものがわかるし、しんどい時にどちらを選ぶかの判断材料になるから、踊らされないことが大切。
ということで、仕事どうしよう。
また求人情報とにらめっこ。
いつも頭にあるのは、また続かないんじゃないか、うまくいかないんじゃないかってこと、失敗を恐れて身動きが取れなくなってしまう、というかいまその状況かも。
でも、今までの失敗をマイナスと思ってはいけない。世間の一般常識ではそのように認識されることが多いけど、失敗はプラスだ。
それこそ私はいろんなところでたくさん失敗してきた。成功?何を持って成功とするのかがよくわからない。けど、自分には無理だと思っていたことをいくつか達成してきた。忘れてしまっていたが…それは成功と呼べるだろう。
言い直そう、いくつかの成功をしてきた。けれど、それ以上の失敗をたくさん積み重ねてきた。失敗をマイナスと捉えるなら、積み重ねるという表現はおかしいはずだが、この表現は全く間違っていない。とどのつまり、失敗はプラスなのだ。
ということで、失敗をたくさんしてきた私だからこそできることがあるはずで、それを長所にしたっていいはずだ。
面接でよく聞かれる長所と短所、私はいつもあるポイントを特定して表から見た自分と裏から見た自分をプラスとマイナスで表現するが、この感覚が理解できない人の下で働いてもつまらないだろうな〜とも思う。
雇用関係とはなんだろうとも思う。
働かないと生活できないので働かせてもらえることはありがたいことだ。けど、会社にとっての人材ってそもそもなんだろう、社の掲げる理念に共感して働きたいと思って熱意を持って現場に立つ人をもっとしっかり見ていくべきじゃないのかな。
なんでもそうだけど、対等であるべきものが捻じ曲げられ、ピラミッドの形に置き換えられている。そう思う私は組織の中でおとなしく枠にハマるタイプじゃないなぁと痛感する。
人それぞれ、合った働き方があるはずなんだよね。それを見つけられる日が来ることを切に願う。
一時停止
前に進めなくなって、数日経つ。
今日は父が帰ってきて、私が室内の電気を消して休んでいるにもかかわらず、ラジオの音を大きくしてうるさくされた。
おそらく、生存確認なのかもしれない。
寝ているはずの子供があまりにも静かなので、触ったり揺すったりして起こし、子供は大泣きする。
そんな起こし方をされたのは、当人同士しか知らないことで、それを例えば起こされた方が「こんな事があって…」と誰かに話したとしても、「そんなわけない、気にしすぎ、たまたまタイミングが悪く目が覚めただけで、起こそうとしたわけじゃないはず」というようなことを周りがフォローする。
確かに悪意はないかもしれない、けど、じゃあ深夜の勤務で疲れて眠っている人をそんな風に心配するのが家族としての在り方なのか。
それは絶対に違うと言いたい。
そんなものは心配ではないし、コミュニケーションの正しいあり方ではない。同じ家に住んでいるからこそ、もっと違う形で表現すべきなのに。
実際そのラジオがいつもどういう意図でつけられているかは当の本人しか知る由はない。
しかし、どんな形であれ遠隔で騒音を出しているという事実は変わらず、父からいつも否定的な言葉ばかりをかけられている私には嫌がらせとしか思えないので、このコミュニケーション?方法は間違っている。
そしてまた、父への怒りが沸き起こる、静かに日々募っていくのだ。怒りや恨みは、苦しみしか生まない。けれど、こんなふうに日々新たな怒りの種を蒔くのは父であり、それを刈り取る事ができず、育ててしまうのは私なのだ。
抜けることのできない負のスパイラルに巻き込まれ、この環境から抜け出る気力もむしり取られた。おはぎちゃんのおかげで、生きる気力だけは失わずにいられるが、この大切な存在をいつ奪われるかはわからない。
親というだけで上から抑えつけることは、こんなにも子供の心をズタズタに引き裂くのだ。
前に進めない、けど前に進みたい、私は生きたいし、変わりたい。自分の人生を取り戻したい。
そうか、実家は便利で安全だと思っていたけれど、ここは施設なのかもしれない。
父が決めたルールに従わなければ、生活することを許されない設備なのだ。
父が許す時間に働き、父が許す生活を営み、常に模範的に過ごさなければならない。
この家の最大の権力者は父であり、最大の権力者はゴミだらけの部屋で好き勝手に生活していても誰にも怒られない。
もちろんゴミを捨てなくても、誰にも怒られない。みかんの皮や、切った爪や毛だらけの床の上に寝転がり、一日中テレビを見て過ごし、子供の生活をも支配し、隣近所との関係を遮断する。
それがちちの生き方で、私にはそれに従うという選択肢しかないのだ、従えなければ出て行けと言われるだけ。
延々と繰り返されるこの家族の因縁は父が生きる限り続いていく。
私はゴメンだ、もっとマシな生き方をしたい。
少なくともゴミだらけの家で暮らすなど…やはりこの家を出るしかないのかもしれない。
父がいない間に色々と反省もし、これからのことを冷静に考えて決めたつもりだったが、父のライフスタイルそのものを受け入れられないのであれば共に住むのは不可能だ。
まともな生活をするために、働かなければ。
私は人間らしい生き方をすることを選ぶ。
まだ人生は終わりじゃない、これからだって他人のために役に立つ何かを成し遂げられるかもしれないのだから、諦めない。
生きている限り、自分の意思で選んで進むことはできるのだから、必ず道はある。
そして小さくて温かくてふわふわした、白とグレーのしましまの、希望も。
過去にとらわれすぎると前に進めなくなる
先日、不思議な夢を見た。
もう10年くらい前に働いていた職場で、ずーっと憧れていた先輩が夢に出て来た。
今更だけど、告白をする夢だったような気がする。
現実では、自分に自信がなさすぎて告白とか絶対無理だと思っていたし、会社でその人に会えるだけで幸せだった。それ以上を望んで失うくらいならそのままでいいと思っていたのだ。
私もモテない方ではなかったが(昔はね)、とにかくその先輩は仕事ができる上にカッコイイのでめちゃくちゃ人気があったのだ…。
ある友人を通して仲良くなろうと試みたこともあったが、人づてで、しかもそれほど親しくない男性を通すとややこしいことになるらしい。
その友人に対して恋愛感情は一切無かったのに、友人とその彼女に感違いされていたようだ。そしてもちろん憧れの人ともうまくいかなかった。
勇気を出して告白していたら何か変わっていただろうか?もし過去をやり直せたとしても告白できるとは思えない。
けれど、夢の中で私はその人に想いを伝えていた。そんな夢を見たのは岸見一郎さんの『幸せになる勇気』を読んだからかもしれないが…。
父のこともそうだけど、私は過去にとらわれすぎている。勇気が足りなくて、できなくて悔やんでいることはたくさんたくさんある。
でも、今はもう、どうしようもないのだ。
母も弟もかえってはこないし、壊れてしまった関係を元に戻すことも、できなかったことをやり直すこともできない。
今の自分とちゃんと向き合って、これからどんなふうに生きていくのかを考えるべきだ。
叶えたい夢はあるのだ。今はまだ勉強中だけど。
…諦めなければ夢は叶うらしい。
昔の夢を見たついでに、面白半分で昔付き合っていた人や自分の名前をネットで検索したら意外な発見があって面白かった。
唯一残念なのは、自分と同姓同名のアカウントで妙なつぶやきがあり、それを思い出したくない人がフォローしていたことだ…。
その人と関わっていた期間は辛いことばかりだったのであまり思い出したくはないけれど、意識的に忘れようとしていても、無意識では恐怖として残っていて、時々考えてしまう。
この人との事がなければ、私はここまで男性不信にならなかったんじゃないだろうか…。楽しいこともあったけれど決して美しくなどなく、呪われた過去として葬りたい。
けれど、その人が元気そうだったことは良かったと思う。
私はこんなだし、向こうもあまりいい状態ではなさそうだったが、精神が病んでいる以外は元気そうだった。
生きていればなんとかなるのだから、日々浮き沈みはあるけれど、めげずに前を向いて生きていきたい。
そんなことを改めて考えたので、ここに記しておく。
心の安らぎとはこういうこと
今朝早くに父が出かけて行き、泊まりがけなので今日は戻らない。
妹と姪っ子が遊びに来て、いろいろと愚痴を聞いてもらいこれからのことを相談したりアドバイスをもらったり。
仕事が軌道に乗っていないので生活が安定していない私。
父との生活から来るストレスで憂鬱になり仕事に行くのが嫌になり引きこもることも多く、ますます収入が減る。
悪循環だ。
いくつかの対応策を考えたけど、今の自分には負荷が大きすぎる…。結局は我慢してこの家に住み、ストレスを軽減させる方法を考えるのが現実的な改善策としてはベストらしい。
父が家にいると一日中監視されているような感覚を覚える毎日だったけど、今日は留守なので心が安らいだ。
子供の頃からずっと、父の癇癪がいつ爆発するかと怯えながら過ごして来たので、そういうトラウマみたいなのが自分の中に残っているんだろう。
しかし家を出て暮らせば別の不安が出て来るのだ。とにかくいつも何かに怯えながら生きている。家を出て暮らすには生活費も今の倍くらい働かないと稼げない。
どちらがいいかは一概には言えないだろうと思うし、私自身そこまでして働いて実家を出るのは馬鹿げているような気もするから。
答えを出すのはもう少し先にしよう。今は感情的になりすぎている。
久しぶりにお客さんが来てはしゃぎすぎたので爆睡するおはぎ氏。
愛する猫たちと奥深くに潜む憎しみについて
もともと外を出歩く方ではないけど、最近は自宅で過ごす時間が増えた。
おはぎちゃんをひとりぼっちにしたくない気持ちもあるし、何より私が、仕事に行くよりは猫と布団の中でうずくまっていたい…。
そして本能のままに、それを実行してしまうのです。
ベッドで本を読んでいると、しきりに本に飛びかかり噛みついてくるおはぎ氏。
スマホ相手でもやはりかじりついてくる…逞しいかぎりですな!オニャノコだけど。
昨日のぐり。
にゃおにゃお言いながら私の後をついてくる…雪もなんのその!
雪の上についた猫のあしあとも愛しいったら。
最近、父との生活が苦痛すぎて、家を出ようかと思っているけど、おはぎちゃんは連れて行けてもこの子たちは連れて行けないんだよね…。
ずうっと、父を恨んで育ってきて、母や弟が亡くなった時に、和解したつもりだったけど、私の心の奥深くには、まだ憎しみが残っています。
だから、父の思いやりのない言動全てに苛立ちを覚え、やり場のない怒りがこみ上げてきても、制御するのが苦しくて本当に辛い。
私の生活スペースに踏み込まれるだけで、暴れまわりたくなるほどの怒りがこみ上げる。
もう私は限界なんだと思う。
これ以上は無理だ…。
父は妹の名前を繰り返し呟く。
時々、弟の名前も呟く。
けれど、私の名前を呟くことはほとんど無い。
そういう時、死んでしまいたくなる。
こんなにも無神経に、傷つけられてきたことに…父は気付いていないのだ。
私が死ねば、後悔するだろうか?反省するだろうか?
そんなことを、時々思う。
早い冬が来た
今日は雪が降りました。
積雪10センチくらい?
雪を踏み分け歩く私の足元に集まってくるぐりとぐら。
こげちゃんとモモタは玄関先でのんびり待機。
昼ごろに雪が止んだので外階段と自分の車に積もった雪をどかしたんですが、またパラパラ降ってきました。
雪かきしなきゃと思ってたけど、仕事は休みだし、車のことは気にせず昨晩観た映画を観直すことに。
スマホでHulu三昧だったが久しぶりにDVDを何本か借りた。
いちばん衝撃的だったのはこの作品『レヴェナント〜蘇りし者〜』
ディカプリオのオスカー受賞作ということで即決。観終わってから調べたところによると実在の人物をモデルにした小説が原作らしいが、事実かどうかわからない伝説的な話も多く、謎に包まれた生涯だったようだ。映画でも脚色されている箇所は多いらしい。
真夜中にグリズリーと戦うシーンを大画面で見るのはスリラーというよりホラーだ…。
しかし作品全体の雰囲気が美しいのであまり恐ろしさは感じない。
美しさ、儚さ、厳しさ、その中でも生かされるのは神の力だろうか…。
冬の雪山などを舞台にした映画の荘厳な感じがとても好きだ。
厳しい冬山の中で生きる辛さを思うと、今与えられた環境がどれほど有難いか…。
今ある生活が無くならない保証などどこにもないのに、あって当たり前みたいになってしまってる。
当たり前のものなんてどこにもない。
命も、家も、仕事も、大切な人たちも。
永遠ではない、限りある儚いものだからこそ愛おしく尊いのだ。
だからこそ、どのように生きるか、を考えすぎてしまう。
これからどうするか
それらを否定せず認める。
認める≠受け入れる
ただ客観的に事実を認める。
そして自分が真に求めるものは何かを吟味する。
辻褄を合わせようとか、負い目を埋めようとかはしない。
ありのままの自分の感情を受け止める。
好意を持たれるのは嫌じゃない。
でも、受け止めることはできないから、傷つけたくないから、気付かないふりをする。
どうせ私なんて、と思っていたけど、何の魅力もなければそんなこともされないだろうから、そこは素直に認めよう。
多少の過大評価は罪じゃない。
それと…今までは『悪いあの人』『かわいそうな私』に囚われていたけれど、『これからどうするか』を考えて、前向きに行動しよう。
色んな本を読んでもなかなかできなかったし変われなかった。でも、今度こそ、一歩を踏み出せるように…。
私は変わりたい。
愛する人に振り向いてもらえなくても、愛していこう。
愛すれば愛してもらえるかも、なんて浅ましいのではないかと思っていたけれど、愛さないのに愛してもらおうなんてムシが良すぎるから。
だから、これからはもっと、恐れずに勇気を出して大切な人に気持ちを伝えていこう。
以上、決意表明なり。