朝の目覚め
今日は不快な出来事で目が覚めた。
せっかくのおはぎちゃんとのラブラブ睡眠タイムを父に邪魔されたからだ。
私の肩のあたりに乗っかって眠るおはぎ氏、目が覚めてるんだけど、動くとおはぎちゃんが起きてしまうので寝たフリ…。
そしてまた、夢に落ちていく。
この夢のような、あったかくてやわらかい小さなおはぎちゃんとの幸せな時間。寒い冬の朝、温かい布団の中でぬくぬくと微睡むことが私の喜び。
しかし、大した用もないのに父が私の生活スペースに入ってきたためぶち壊し…今日は仕事で深夜まで勤務なのでもっとちゃんと寝ておきたかったのに。
おはぎちゃんはよく脱走して、玄関の方へ行ってしまうのだが、玄関周りはやはり父の荷物でめちゃめちゃなうえに小便用のトイレがむき出しで設置されている。
夏はゴキブリがたくさん出たし、風呂場の方からは足がいっぱい生えた変な虫も出てくる。
私から見て汚染区域である玄関、風呂、トイレの方には行ってほしくないのだが、父が入ってきたタイミングで脱走してしまうこともしばしばある。
とにかく貴重な睡眠を妨害されたこと、おはぎちゃんとの幸せな時間を壊されたこと、そしておはぎちゃんが汚染区域に脱走するきっかけを作ったことに対してイライラが募る。
気分を変えるためにコーヒーを飲んで二度寝。
嫌な夢ばかり見る。
とにかく吐き気をもよおすような気持ちの悪い内容の夢だった。
おはぎちゃんにも起こされつつ、ゴハンはあるし、トイレも掃除してあるので無理やり寝続けて何度かの覚醒のあと、ふと目覚めて掛け布団の上を見たら、おはぎちゃんに買ってあげたオモチャが私の胸元あたりに置いてあった。
遊んで欲しいんだな〜。
いじらしいほどかわいいおはぎの行動。
ゴハンでもなくて、トイレでもなくて、遊んで欲しいの。というメッセージ。
こんなおはぎちゃんに今日も癒され、少し気分も回復。
遊び疲れて眠るおはぎ氏。
瞬足のおはぎ氏。
猫がじゃらされているというよりも、私が猫にじゃらされている、人間じゃらし…。
そして汚染区域の一角、東京の家を引き払った時に持ってきた使わないモノたち。
一年半近く放ったらかし、勝手にいじると文句を言われるけど、それでも少しずつ捨ててますが、量が多いので大変…。
このゴミの山を見る度憂鬱になるけど毎日のことなので少しは慣れた、けどやっぱり片付けたいのに片付けられないことで少しずつストレスがたまっていく。
本当は我が家で一番日当たりのいい出窓のついた吹き抜けのあるスペース…薪ストーブとか石油ストーブとか置いたら本当に寒い日はかなり暖かく過ごせるはずなのに、残念すぎる。
ネガティブな終わり方になってしまった。
今日は仕事頑張ってきたからそれなりに達成感もあるはずだけど、日曜日の出勤のこと考えると憂鬱…。
仕事よりおしゃべり優先な人と働くのってキツい。私は仕事に集中したいのに…。そんなイライラが最近たまってきた。
とりあえず明日は楽しみなことがあるので気分転換で楽しもう。、
冬支度
本格的に寒くなってきたので、マットレスを敷いている床の下にもアルミの保温シートを設置。
そして電気敷き毛布をセット。
布団を全部どかして掃除機をかけた。
マットレスの上には、除湿シート、ウールの敷きパッドや毛布、キルトケットを敷き、さらにマットレス用のボックスシーツと冬用の敷きパッド、掛け布団は羽毛布団に毛布、マルチカバーをかけている。
ベッドメイキング中、おはぎ氏は大はしゃぎで敷きパッドの下や布団の中に潜り込み、たくさんお手伝いをしてくれました。
単調な作業も、猫がいると楽しい。
先日新しく買ったオモチャも気に入ってくれて、早朝からベッドの脇でのたうち回ってました。
立ち上がり、本気モードです。
離しません…
この大変嬉しそうな様子、なんか幸せだなぁ。
生活の方も少しずつ落ち着いてきました。
いろいろわかってから、気持ちが吹っ切れたことが大きいです。
でもやっぱり、家族以外の訪問があると、家の中のひどい有様に恥ずかしい気持ちでいっぱいになります。
片付けたいけど片付けさせてもらえないんです…なんて言えないので、無言でスルーします。
気にしないようにするしかないなぁ。
喜びの日
良い出来事があって心が満たされてる日
あきらめなければ叶うものもある
あわてずにゆっくり…
長い時間をかけて熟成させるんだね
新しい発見
今日は、家族に関する新たな発見があった。
家が片付かないのも、考え方や生活スタイルが合わなくて苦しかったのも、それが発見されたことにより合点がいくようになった。
そして無理に変える必要がない、というよりも変えることはできないであろうことも分かった。
変えることができないものを変えようとしたからみんなが苦しい思いをしていた。
でも、変えることができないと分かれば、あきらめもつくし、それらの事柄に対して反応を変えることができる。
誰のせいでもないことも、よく分かった。
ずっと恨んできた気持ちも、やがては消えていくかもしれない。
それが分かって良かった。
本当に…。
ここまで来れたのは、妹が親身になって支えてくれたからだ。
父親に愛されないことに苦しんでいたけれど、自分のこと以上に真剣に考え悩みどうしたらいいかを懸命に探り出してくれた妹が居てくれることに心から感謝したい。
足りないものではなく、与えられたものに感謝をする。この気持ちをいつも忘れずにいたい。
もっと広い視野で、視点を変えれば父にだって感謝できるはずなのに、それをしないのは私が天邪鬼で意地っ張りだから。
後悔しないうちに、きちんと話をしなければ。
そして愛しのおはぎちゃんは今日も元気にカミカミ攻撃。おててが痛いですけど、元気に育ってくれてありがとう。
猫らしいねぞうになってきたおはぎ氏。
夜は映画を観た
『バチカンで会いましょう』
『チョコレートドーナツ』
どっちもとても良かった。
そして今日も、愛について考えた。
最近観た映画について
お気に入りの映画があれば、繰り返し何度も観る方だが、最近DVDは増やさないというか減らすようにしているので、レンタルかHuluで閲覧する。
レンタルはTSUTAYAの宅配レンタルだ。
月4枚のコース、洋楽やJAZZやクラッシックのCDを借りたりもするので、扱っているタイトルの多い宅配は便利すぎてありがたい。
時々は新作も見たくなるのでリストに追加したり、単品で借りたりもする。店頭で借りてうっかり返し忘れたりするパターンをやらかした経験があるので、宅配レンタルは本当に素晴らしい。
レンタル屋さんの店内をウロウロして観たい映画を探すこともないので時間を無駄にしないところも、まとめて借りるとお得というフレーズに踊らされ、さほど観たくない作品をまとめて借りたけど結局観ないで返すまたは延長してしまうなどという失態をおかすこともない。
それプラス、Huluがあればそこそこの映画好きな私でもそれなりに満足できる。
まぁ、iPhone小さすぎて物足りないという唯一の不満はあるが…。
先日も宅配レンタルでいくつかの作品を借りて観た。
今更だけど、『レ・ミゼラブル』アドラーの幸せになる勇気を読んだばかりだったので、ジャン・バルジャンの生き方は非常に考えさせられた。
『追憶の森』は富士の樹海を舞台にしていて渡辺謙さんが出ていて面白そうだったので、期待しすぎてた感があるが、おとぎ話チックで物足りなく感じた。
『レヴェナント〜蘇りし者』いろんな意味で衝撃的だったけど、すべてが素晴らしかった。
今日は初の試みとして、iTunesで映画をレンタルした。
『ルーム』という作品がどうしても観たかったので…あらすじからイメージしていた世界観とはだいぶ違ったけど、再生の物語としては良かったし、好感の持てる終わり方だった。
人はやはり、家族や社会と関わって生きるべきなのだと痛感する。失われた時間を嘆くよりも、これからどうやって生きていくのかを考え、共有できる存在がいるのは羨ましい。
あ、あと、『世界から猫が消えたなら』も、とても良かったです。原作は出版されてすぐくらいに読んだけど、映画は泣けたなぁ。
好きな俳優さんがたくさん出てたのも◯
あとは思い出せる範囲で良かった作品
『マイ・インターン』
アン・ハサウェイもともと大好きだけど、ロバート・デ・ニーロが良すぎる…。こういう映画を観てると、男も女もいくつになっても普通に恋愛するんだね。
世の中には浮気だ不倫だ略奪だっておぞましい関係が溢れてるけど、シングルならいくつになっても恋の訪れを喜んでいいはずだし、観ていてすがすがしい。
恋愛モノをいくつか観たけどラブ・アクチュアリーが私の中ではナンバーワンです。
クリスマスにもオススメムービー。
またダラダラと垂れ流してしまった。
気だるさからの脱出
ずうっと悶々としてて、自分の殻にこもっていたけど、久しぶりに嫌々仕事に行ったら少し気が晴れた。
最近ひとりごとみたいな内容がとっても多いけど、溜め込むよりは吐き出そうって事で、これでいいのだ。
たとえば、なぜあえて人目に触れにくい設定にして、ブログを書いているか…?
日記は家族にみられたら困る。
あと、完全にシークレットな状態でブログを書いててもつまらない。もしかしたら誰かに見られているかもという緊張感も、記事を書くときは大切だと思うので。
それに、シークレットにしてしまうと、いつか見返したいと思ったとき、ログインしないと見れないんじゃあ困る。メアド変えてもパスワード忘れても見れる状態にしておきたい。
ネットでも不必要な情報が氾濫しているけど、このブログは道端の小さな石ころみたいに、目立たずに存在できればいいと思う。
何人と繋がりたいとか、ブロガーさんのお友達増やそうとか、アクセス数伸ばそうとか、そういう目的は無く、ただ、良いことも悪いことも含めて、思いの丈を綴るための場所として大切にしたい。
昨日や一昨日の自分が書いた記事を読み返して辻褄の合わないこと呟いてるなぁこの人、と、自分を客観視できるのもブログならではだ。
さらに言えば5年後10年後、20年、30年と経ったときに読み返して、当時の自分がどんなことで悩んで、どんな生き方をしたいと望んでいたのか、稚拙な文章と共に残しておきたい。
おはぎちゃんのかわいい写真も添えて。
自分勝手な考えを呟くことで、心の深くにあるものを解放できたらいいな
いろいろ好き勝手書いている。
あくまでもここだけです。
拡散されることは望んでいません。
最近は過去について触れることが多い。
自分の内面にある闇も、表に出して光を当てれば闇じゃなくなるんじゃないかな。
鍵付きの箱の中にしまっておくと、影って闇が濃くなる。けど、蓋を開けて四方から光を当ててやると、影は無くなり、闇は逃げていくかもしれない。
物理的には。
心は形がないものだけど、そういう言葉で表現されている以上、試してみる価値はあるんじゃないかって。
無条件の愛とは
おはぎちゃんを見ていて、無条件の愛、という言葉が頭に浮かんだのでググってみた。
先日読んだアドラー心理学にもそういえばあったような気がする…。
自分自身を無条件で愛すること
条件付きの愛は承認欲求という苦しみを生むこと
今自分が置かれている状況と、この言葉から感じたこと…
父との親子関係は、条件付きの愛だろうと思う。
父は、父の望む生き方をしていれば認めてくれる。幼い頃からずっとそうだった。
勉強にしても部活にしてもバイトにしても、父の望む通りにしないと認めてもらえなかった、いや、正確にいうと認めてもらえたわけではない。望む通りにすれば否定されなかったし、大ごとにならなかった。ただそれだけのことだった。
幼い頃は怖くて従うことしかできなかった。逆らうつもりはなくても、父の意にそぐわないことをすると、こっぴどく叱られた。小学生の頃から一晩中玄関に正座させられたり、夜中に外に放り出されたり…今考えてもそこまで叱られるほど酷いことなんてしていないのに…当てつけにマンションから飛び降りてやろうと何度も思ったが実行には移さなかった。
高校に行き始めて、アルバイトを始めたり、少しは自分の力でできると思えることが増えてきて、仲間も増えて、精神的にも少しは視野が広がり大人になってくると、父の意は時に間違いであることがわかり、親という立場を利用して自分の考えに従わせようとする父に反発を覚えるようになった。
取っ組み合いの喧嘩になるようなことも度々あった。父は母にも厳しく、食事に文句をつけたり、味噌汁を壁に投げつけたりすることも度々あった。ちなみに父は料理人とかではない。
今思うと、とことん不器用で言葉が足りず、暴力や暴言で人を従わせようとするのは、父だけが悪いわけではなく、父が関わってきた環境のせいでもあったのだが…。
それを踏まえても、妹には優しく寛大で、私や母にはとことん厳しく、理不尽な思いを何度もしてきた。その辛さは経験したものにしかわからないだろう。妹を恨んではいないが、父のことはやはり恨んでしまう。
私は、父から愛されるだけの条件を満たしていなかったのだろうか?
それはなぜだろう。
そんなこと、わかるはずもなく、知ったところでどうにかなるものでもなく、さんざん切り刻まれてきた心の傷は癒されない。
昔、ある人も、条件付きの愛を求めてきた。
私の個性を認めず、自分の理想とする状態でいることを強制された。それは徐々にエスカレートし…私は猛反発した。あとは、言わずと知れた展開になった。
愛とはなんだろうとずっと考えてきた。
そしてこんな私が親になれるとも思えず、父と同じことを繰り返してしまうのではないかという恐怖が歳を重ねるにつれ大きくなってしまい、結婚したいと思えなくなっていった。
一昨年亡くなったけれど、溺愛していた猫がいた。躾に厳しく育てた部分もあるが、私にとって本当に大切な子だった。慈しむという言葉は、この子と私の関係にぴったりだと思う。
そしておはぎちゃん。
トイレでもなんでも覚えるのが早くて、どこでも登れるし、なんでもする。大事な手帳や本やしおりも室内用のメガネも噛むし、今年買ったばかりのお気に入りのカーテンはボロボロにされた、ゴミ箱の中身を出したり、寝ている時に顔をパンチしたり、飲みかけのお茶が入ったコップに手を突っ込んだり、そのコップのふちに足をかけて歩き回ったりする。
しかし、怒れない。なぜだか怒ろうという気になれない。
良いことか悪いことかは別として、この子がやることなすこと全てが愛しくて、見ていて飽きない。
不思議な感覚だと思う。
これはなんなんだろう?
まるで自分が産み落とした子供のように、成長が喜びであり、おはぎという存在そのものが、私の人生に色を塗っている。
マロ君が居なくなった世界は白黒で面白味がなく、感動に薄れる。なんのために、誰のために生きていけばいいのかと思うと虚しくて涙が出る日もあった。
けれどおはぎちゃんが全てに喜びを与えてくれる。おはぎがゴミ箱から引っ張り出したティッシュでさえ、かわいくて記念撮影してしまうほどに。
おはぎちゃんと過ごす時間は私にとって喜びであるとともに、リハビリでもあるかもしれない。愛とはなんなのか、この子との関わりを通して学んでいくのだ。
自分自身を無条件に愛することができるようになれば、私はもっと変われるのだろうと思う。
そして今日も、おはぎちゃんと出逢えたことを感謝する。
働くってなんだろう?〜心のままに書き綴り、本当の望みを見つけよう
今日は朝からずっと雨が降って肌寒く、窓から外を見ても白っぽい視界に遮られる。
気持ちが滅入っているせいか、普段は雨の音や雨が作り出す静けさの響きに耳を傾けると心が静まるのに、今日は浮かない気分で、まるで靴や靴下やズボンの裾が雨でびしょ濡れになり、それを引きずって歩いているような、そんな感覚。
心の中までどんよりと重く湿ったまま、いろいろな思考を巡らせても、ポジティブにはならない。
けれど、温かい思考回路ではなく、落ち着き、現実を直視した上で、慎重に冷静に、そして負の自分の存在を認めた上で考えた結論が前向きなものならば、それは素晴らしい熟考だったと言えるはずだ。
ポジティブすぎず、ネガティブすぎず、それは何かを決める上でとても大切な事じゃないかと思うのだ。
働く時間について、職種や、月々どのくらい必要になるか、また、どこで暮らすか、それから、自分は何になりたいか、何がしたいか、生き方や働き方としてどうありたいか、どうあるべきかを考えたり調べたり、他人の意見や考えも参考にして…今日見つけたのはこんな意見。
お金のためだけではなく、なんのために働くか、という問いかけの中でとてもしっくりきた答え。
・社会と繋がりたい
・自分を好きでいたい
どんな働き方をするか。
・人々が求めるものを提供する
(世の中の需要と供給のバランスに沿ったものであることが大切だし、それを満たすことによって↓が叶えられるはずだ)
・幸福度の高い働き方
さらに理想の働き方として定義されているが
・自分の得意なことで
・社会の需要を満たし
・働く喜びを得る
という流れになる。
問題は、得意なこととはなんぞや、ということ。
強いて言えば片付けだが、これは現在資格取得のための勉強中である。
そしてこの片付け、片付けられない人というのをネットなどでもよく見かけるが、需要はあるはずだけど、経験を積む場所が極端に少ない。
特にこのへんの田舎になるとほぼ無くて、資格持ってる方が独立して自営でやってるケースが多い。
結局、これはすぐさま収入に結びつけるのは難しい、準備期間が必要な職種であることがわかる。
では、さしあたってどうやって収入を得て、それを生活の糧とするか…。
やっぱり今までやってきたこと(経験)を活かせるところがいちばん負担が少ないように思う。
例えば新しいことに取り組もうとすると、学ばなければならないことが圧倒的に多いので、それプラス日々の生活でいっぱいいっぱいになり、勉強どころじゃない。さらに言えばこの働き方は息抜きタイムの割合も大きくないと回らない。
そういう環境の中でそれを成し遂げる人もいるが、私はそこまで強い意志の力を持っているわけではないので、自分の身の丈にあった方法でやっていこうと思う。
ということで…。
実家を出て生活するための資金を得るために、自分の経験を活かして働く。
働く前に考えること
何する?
ていうか時給は?
週にどのくらい働ける?
どのくらいの収入を想定する?
勤務地は?
求人ある?
入ってから思い悩むであろうこと
人間関係
仕事の内容
募集内容と相違する勤務条件
仕事が楽しめるか
客層は?
などなど…。
ある程度は想定してみるが、実際に殴られるのと想像で殴られるのとは全く違うので、無理ならやめればいい。
我慢して続けることに意味はない。
そのエネルギーはもっと違うことに使った方が効率的だ、勝てない勝負にいちばん大切なカードを投入したところで、取られるのがオチ。
勝負の世界には(?)潔く負けを認めることも必要…というわけのわからない理論でごまかしてみる。
でも実際、無理な職場で精神すり減らして努力努力努力しても、それが実るだろうか?何に自分のエネルギーを使うか見極めることも働く上で重要だと思う。
しんどい場所でも続けられるかどうかはその人の性格や経験もあるのでくれぐれも無理はしないことだ、逃げグセがつくと良くないって意見もあるけど、逃げるか残るか迷ったら、なんのために働くのか?という問いかけを自分にしてみるといい、そして、その答えと現状をよく見極めれば行方は予想できるはず。頑張って社畜として働き続ければ奇跡が起きるかもとか思わない方がいい。
仕事辞めても命がある限りやり直せるから。
経験者です。もう何社辞めたかわかりません、履歴書には書けないほど短い期間でね…。
あれ?本題逸れちゃった。
とにかく、働くって自分にとってなんなのか、世間の一般常識を無視して自分の答えを見つけた方が、生きていく上で必要なものとそうでないものがわかるし、しんどい時にどちらを選ぶかの判断材料になるから、踊らされないことが大切。
ということで、仕事どうしよう。
また求人情報とにらめっこ。
いつも頭にあるのは、また続かないんじゃないか、うまくいかないんじゃないかってこと、失敗を恐れて身動きが取れなくなってしまう、というかいまその状況かも。
でも、今までの失敗をマイナスと思ってはいけない。世間の一般常識ではそのように認識されることが多いけど、失敗はプラスだ。
それこそ私はいろんなところでたくさん失敗してきた。成功?何を持って成功とするのかがよくわからない。けど、自分には無理だと思っていたことをいくつか達成してきた。忘れてしまっていたが…それは成功と呼べるだろう。
言い直そう、いくつかの成功をしてきた。けれど、それ以上の失敗をたくさん積み重ねてきた。失敗をマイナスと捉えるなら、積み重ねるという表現はおかしいはずだが、この表現は全く間違っていない。とどのつまり、失敗はプラスなのだ。
ということで、失敗をたくさんしてきた私だからこそできることがあるはずで、それを長所にしたっていいはずだ。
面接でよく聞かれる長所と短所、私はいつもあるポイントを特定して表から見た自分と裏から見た自分をプラスとマイナスで表現するが、この感覚が理解できない人の下で働いてもつまらないだろうな〜とも思う。
雇用関係とはなんだろうとも思う。
働かないと生活できないので働かせてもらえることはありがたいことだ。けど、会社にとっての人材ってそもそもなんだろう、社の掲げる理念に共感して働きたいと思って熱意を持って現場に立つ人をもっとしっかり見ていくべきじゃないのかな。
なんでもそうだけど、対等であるべきものが捻じ曲げられ、ピラミッドの形に置き換えられている。そう思う私は組織の中でおとなしく枠にハマるタイプじゃないなぁと痛感する。
人それぞれ、合った働き方があるはずなんだよね。それを見つけられる日が来ることを切に願う。
一時停止
前に進めなくなって、数日経つ。
今日は父が帰ってきて、私が室内の電気を消して休んでいるにもかかわらず、ラジオの音を大きくしてうるさくされた。
おそらく、生存確認なのかもしれない。
寝ているはずの子供があまりにも静かなので、触ったり揺すったりして起こし、子供は大泣きする。
そんな起こし方をされたのは、当人同士しか知らないことで、それを例えば起こされた方が「こんな事があって…」と誰かに話したとしても、「そんなわけない、気にしすぎ、たまたまタイミングが悪く目が覚めただけで、起こそうとしたわけじゃないはず」というようなことを周りがフォローする。
確かに悪意はないかもしれない、けど、じゃあ深夜の勤務で疲れて眠っている人をそんな風に心配するのが家族としての在り方なのか。
それは絶対に違うと言いたい。
そんなものは心配ではないし、コミュニケーションの正しいあり方ではない。同じ家に住んでいるからこそ、もっと違う形で表現すべきなのに。
実際そのラジオがいつもどういう意図でつけられているかは当の本人しか知る由はない。
しかし、どんな形であれ遠隔で騒音を出しているという事実は変わらず、父からいつも否定的な言葉ばかりをかけられている私には嫌がらせとしか思えないので、このコミュニケーション?方法は間違っている。
そしてまた、父への怒りが沸き起こる、静かに日々募っていくのだ。怒りや恨みは、苦しみしか生まない。けれど、こんなふうに日々新たな怒りの種を蒔くのは父であり、それを刈り取る事ができず、育ててしまうのは私なのだ。
抜けることのできない負のスパイラルに巻き込まれ、この環境から抜け出る気力もむしり取られた。おはぎちゃんのおかげで、生きる気力だけは失わずにいられるが、この大切な存在をいつ奪われるかはわからない。
親というだけで上から抑えつけることは、こんなにも子供の心をズタズタに引き裂くのだ。
前に進めない、けど前に進みたい、私は生きたいし、変わりたい。自分の人生を取り戻したい。
そうか、実家は便利で安全だと思っていたけれど、ここは施設なのかもしれない。
父が決めたルールに従わなければ、生活することを許されない設備なのだ。
父が許す時間に働き、父が許す生活を営み、常に模範的に過ごさなければならない。
この家の最大の権力者は父であり、最大の権力者はゴミだらけの部屋で好き勝手に生活していても誰にも怒られない。
もちろんゴミを捨てなくても、誰にも怒られない。みかんの皮や、切った爪や毛だらけの床の上に寝転がり、一日中テレビを見て過ごし、子供の生活をも支配し、隣近所との関係を遮断する。
それがちちの生き方で、私にはそれに従うという選択肢しかないのだ、従えなければ出て行けと言われるだけ。
延々と繰り返されるこの家族の因縁は父が生きる限り続いていく。
私はゴメンだ、もっとマシな生き方をしたい。
少なくともゴミだらけの家で暮らすなど…やはりこの家を出るしかないのかもしれない。
父がいない間に色々と反省もし、これからのことを冷静に考えて決めたつもりだったが、父のライフスタイルそのものを受け入れられないのであれば共に住むのは不可能だ。
まともな生活をするために、働かなければ。
私は人間らしい生き方をすることを選ぶ。
まだ人生は終わりじゃない、これからだって他人のために役に立つ何かを成し遂げられるかもしれないのだから、諦めない。
生きている限り、自分の意思で選んで進むことはできるのだから、必ず道はある。
そして小さくて温かくてふわふわした、白とグレーのしましまの、希望も。